SSブログ
前の10件 | -

語録 号外

†二つの終末論(「からしだね」第99号2020年11月から)

 からしだね第九十七号において、白井きく女史に短いオマージュを献げたところ、会員の一人から感想が寄せられた。「かつて、からしだね誌に二十回にわたって女史の短文(抜粋)が連載されたが、それほど感銘を受けなかった」との趣旨である。察するに、「私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたと信ずるものである。」との私の文章に賛同できない、というより異議を唱えられたのであろう。そこで、なぜ私が女史の信仰を高く評価するか、そのわけを以下に弁明したい。
 
 確かに、内村鑑三は、無教会のみならず我が国キリスト教界にあって、燦然と輝く巨星である。高質の厖大な著述(全集四〇巻)と倦むことのない広範な伝道活動からみて、宗教的天才であったことは間違いない。預言者・詩人としての才質にも恵まれ、起伏の多い人生と相俟って、今や伝説的存在である。また、その高弟塚本虎二は、東京帝大卒の高級官僚であったが、職を辞して伝道者になった超エリートである。新約聖書の個人訳という偉業を成し遂げた。聖書を敷衍という独特の方法でわかりやすく翻訳したもので、他に類がない。彼もまた、名声嘖々たる存在である。両師からは、帝大出の聖書学者や優秀な伝道者が輩出した。かるがゆえに、世間的には無名に等しい白井きく女史の信仰の境地がこの両師よりも高いなどということは、無教会においてはあってはならないし、あるはずもないことなのである。彼女は優れたキリスト者であったにしても、塚本虎二の弟子の一人にすぎないではないか、というのが大方の評価であろう。内村、塚本両師は、後に袂を分かったけれども、無教会にあっては全く別格の絶対的な存在であり、比較や批判はもってのほかなのである。内村師に至っては神格化する向きさえある。それを批判する塚本師側も、同様に偶像崇拝化が進みつつあるのではなかろうか。こうして、無教会は初期の革新性を喪失し、生命力を失いつつある。これが田舎の無学な一キリスト者の抱いている印象であるが、杞憂であれば幸いだ。前述の、私に対する会員の異議には、こうした背景があるのである。
 
 さて、白井女史の信仰が内村師よりも高い境地に達しているとする理由であるが、それは復活、再臨、つまり終末に関する考え方の相違に起因する。私は、内村師の『一日一生』『続一日一生』の愛読者であり、毎朝その日のページを読むのを日課としている。それは内村師の文章の中から選りすぐりの箇所を、聖句と並べて一頁に納めたものである。それを読むかぎり、内村師は復活、再臨についての説明が揺れている。聖書学者や神学者というよりも詩人としての感性で、その時、その時、ひらめいたことを記されているようで、確たる定まった考えには至っていないように思われる。また、終末については、例えばマルコ十三章のような黙示文学的なこの世の終わり、つまり新天新地を伴う宇宙終末劇、そしてキリストの再臨、最後の審判を文字どおりに信じておられたようである。なお、私は内村師の全集を所持しているが、視力・体力の衰え等もあり、師の論文を精査しているわけではない。(塚本師については、今は、『塚本虎二訳 新約聖書』のほか著書を所持していないため、ここに述べるのを省略する。)
 
 これに対し、白井女史は、ヨハネ福音書に基づいて、救いの現在性の立場に立っておられる。イエスの再臨と世の裁きはイエスの使信を聞くとき、換言すれば、聖霊(弁護者)の到来によって実現するのであり、時間的な未来のことではない。つまり、御子を信じる者は今、永遠に生きているが、信じない者はすでに裁かれているのである(ヨハネ三・一八~一九)。黙示文学的な再臨も最後の審判もないのである。キリストの再臨運動を提唱した内村師とは全く異なるのである。なぜこのような相違が生じたのか。内村師と白井女史の違いは、共観福音書・パウロ的終末論とヨハネ的終末論との違いである。この二つの終末論は全く別ものであり、折合いのつけようがない。キリスト者は、真剣に救いを求める限り、いずれかの立場に立たざるを得ない。カトリック教会はもとより、プロテスタントの教会も、共観・パウロ的終末論に立っている。その方が教会という組織体にとって都合がよかったからであろう。無教会の内村師も、終末論については教会と同じようである。

 どちらの終末論が正しいとか間違っているとか言うのではない。それは立証しようのないことである。自分はどちらを信ずるか、これは啓示によるほかない。私が言いたいのは、ヨハネ的終末論は共観・パウロ的終末論を超えているということである。そして、白井女史はこちらの終末論に立っているのである。私がかつて属していた無教会の小さな集まりでは、こんなことを問題にする人はいなかった。ましてや、一般の教会のキリスト教信者はそうであろう。しかし、共観・パウロ的終末観とヨハネ的終末観をごっちゃにすると何が何やら分からなくなるのである。キリスト者はどちらかの終末観に立たざるを得ないのではなかろうか。終末論を曖昧にしている人は、本当の信仰もまことの救いも知らない人である。なぜなら、終末とは救いのことであり、終末を曖昧にすることは救いが曖昧であるということである。私は浅学非才の信仰の薄い者ながら、ヨハネ的終末論を真理と信ずるものである。なお、誤解のないように言っておきたい。私は白井女史の方が内村師や塚本師よりも偉大だと言っているのではない。女史の達した信仰の「境地」が、ヨハネ的終末論のゆえに、両師を超えていると言うのである。社会やキリスト教界に与えた影響の面では、内村、塚本の両師は極めて大であり、一方、白井女史は小さな存在である。女史の真価は、これから世に認められるであろう。

 なお、白井女史の考えは、『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』に詳しい。この著書は彼女の信仰と伝道活動の総決算と言っても過言ではない。女史も共観・パウロ的終末論を経て次第にヨハネ的終末論を信ずるようになり、原書でブルトマンのヨハネ福音書を研究するなかで、最終的にその立場を確立されたのであろう。結婚せず、家庭なく、家なく、財産なく、世に認められず、天涯孤独の身ながら、彼女は無一物にして無尽蔵の恵みの中に起居し、真に平和で自由な、そして軽やかな人生を送られたようである。ヨハネ的終末論の真理を、九十余年の生涯をもって、身をもって私たちに示してくださったのである。

nice!(0)  コメント(1) 

語録 号外

†希有の花―白井きく (「からしだね」第97号2020年9月から)

 「白井きく 珠玉のことば」というブログを始めた。白井きく女史の著作の中から、私がメモしておいた文章を少しずつ世の中に紹介したいのである。なぜ私がそんなことをするかというと、女史の信仰に教えられるところ、共感するところが極めて大であるからである。キリスト教、特に信仰に関心をお持ちの方にはぜひ彼女の著作を読んでいただきたい。とは言っても、私が女史について知るところは、その著書を通じてのみであり、極めて少ない。ちなみに、一九九五年に発行された『神の国はどんなところか』の奥付にある略歴は次のとおりである。

 「一九〇五年。横浜に生まれる。一九二七年、旧制東京女子高等師範学校理科卒業、旧制埼玉県女子師範学校教諭。一九二九年、青山学院高等女学部(旧称)へ転勤。一九三一年、塚本聖書講演会に出席して聖書およびギリシャ語原典を学ぶ。一九四三年、教職を辞任、一九六一年、塚本聖書講演会解散後、独立して聖書集会をはじめ現在に至る。著書に、『ルカ福音書(上)(下)』『ローマ人へ』『使徒行伝の読み方』『マルコ福音書』『みんなで生きる』『いのちの泉をたずねて』『ヨハネの黙示を読む』『訳本・ヨハネの黙示』『聖書のこころ』『ピリピ人への手紙を読む』『夕暮れの頃に明るくなる』『ヨハネ福音書の原形』『ブルトマンと共に読むヨハネ福音書(上・中・下)』などがある。」
 
 要するに、女史は今日のお茶の水女子大学を卒業後、教職に就かれていたのであるが、十六年ほどで退職し、内村鑑三の高弟塚本虎二に師事。約三十年間、師の新約聖書の翻訳、機関誌「聖書知識」の編集等の事務を無給で手伝われた。生計は、数学の家庭教師をして立て、生涯独身で間借り暮らしだったそうである。塚本聖書講演会が解散の後は、ご自身で小さな聖書集会を持たれ、伝道を続けられた。また、塚本の元でギリシャ語をマスターし、ドイツ語にも堪能であったので、略歴にあるように聖書の翻訳や註解書、信仰書の発行にも力を注がれた。女史は一〇〇歳近くまで生きられ、『神の国はどんなところか』を出版されたのが九十歳のときであるから驚く。女史は世間的には殆ど無名であり、私も松山聖書集会の先輩が持っていた彼女の註解書によってその存在を知ったのである。私は素人ゆえに、誰にはばかることもなくここに記すのであるが、女史の信仰は、内村、塚本両師を超えた境地に達せられたものと信ずるものである。
 
 私は彼女の著書によって、新約聖書の要を学ぶことができた。これからも教えていただけるであろう。世の学者、専門家の註解書は難解、厖大、晦渋、煩瑣で結局何が言いたいのかはっきりしないことが多いのであるが、女史のものはそうではない。「一人びとりが自分の生活をもって神からの啓示に接して理解したものが、聖書註解につながる」と前掲書に書いておられるとおり、ご自身の信仰体験に裏打ちされた簡明、率直な、まさに珠玉のような書ばかりである。彼女に私淑するゆえんである。「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ四・三八)というイエスの御言葉のとおり、私は彼女の蒔いた種を刈り取り、永遠の命に至る実を集めているのである。
 
 前述の通り、私は彼女のことを、その著書を通じてしか知らないのであるが、小柄で上品で知的な、名前のとおりのお綺麗な方であったろうと勝手に想像している。それで十分である。生前のイエスと面識がなかった聖パウロは、「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント五・一六)と言っている。私も同様に、女史が著書の言葉を通じて私に語りかけるのを、聖霊の働きを介して聞くのみである。純粋な彼女の霊に出会うためには、現世の彼女の姿や暮らしぶりを知っていることがかえって邪魔になることもある。それはさておき、生涯独身であった彼女は、「天の国のために結婚しない者もいる」(マタイ一九・一二)というイエスの御言葉のとおり、神に特に選ばれ、イエス・キリストの花嫁として一〇〇年近く生き抜かれた。私のブログは、彼女がどのような信仰を持っておられたか、その精華のほんの一端をご紹介するにすぎないが、一度覗いていただきたい。どなたかこのブログをご覧になって、もっと女史の人となりなどについてご紹介いただけることを期待したい。私に力があれば、後世のために彼女の全集を発行したいものだと密かに願っているのである。

nice!(0)  コメント(0) 

語録 112

 信仰が与えられて聖書を正しく読むことができるが、どんなに聖書を学んでも、そこから信仰は生まれない。信仰は一人一人に、全く一方的な神のご恩恵として授かるのである。(『ルカ福音書』下180頁)

nice!(0)  コメント(0) 

語録 111

 放逐された楽園に人が再びもどるとき、何という、喜びと充足と平安とがその
人に臨むことであろう。かの世にはいる資格を与えられたとき、人は初めて正しい人生の
出発点に立つのである。イエスもパウロもこの地上ですでに復活の命を生きられて、私た
ちにその道の可能を身をもって教えてくださった。(『ルカ福音書』下180頁)

nice!(0)  コメント(0) 

語録 110

 クリスチャンがこの世に生きる原則は、キリストの愛をもって生きることで、いまさら道徳や法律の束縛の下に生きるのではない。キリストが信ずる者一人一人にまことの自由を与えて下さったからである。(『ルカ福音書』下176頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 109

 地上生活をする間、自分のところにあるものは、すべて神から託されたものであり、自分の命も意志すらも自分のものでなく、神から頂いたものである。しかし人はその事をすっかり忘れてしまっている。従って、自分自身もこの地上生活もみんな、神のものとして、神にお返しするとき初めて、神が神となり給い、人が人となる。人が自分中心をすてて、神中心に生きるようになるのが、人生の最大目標である。これがわたし達の信仰問題である。(『ルカ福音書』下175頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 108

 度々受難を予告されたように、ここでも(ルカ13:31―35)イエスは、はっきりエルサレムに向かって死の行進をつづけていることを言われた。それはこの世に負けられた人の姿ではなく、却って勝たれた人の姿である。「一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と弟子たちに語られたイエスは、その通り実行されたのである。神を信じて、自分の命をすてることができた時、その人は完成されたのであると私は思う。この世に自分のものが一つもなくなった時、完全に天国人になることができるからである。(『ルカ福音書』下46頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 107

 五タラント預かった者が、他に五タラント儲けたことを報告すると、主人は、「忠実な善い僕だ、よくやった」と言って喜んだ。この忠実さは、イエスの言葉に聞き従って与えられた忠実さではないかと思う。この人の働きに神自身が関与しておられたからこそ、この成果が与えられたのである。地上で委託された少しのものに忠実であることが重要なのである。(『神の国はどんなところか』180頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 106

 神に創造された人間は、神のご支配下にあって、割り当てられた立場に置かれていることだけが最善であることを教えられる。神のご支配のなかに生かされていれば、まわりの状態はどうであれ、そこが「神共にいます国」と化すのである。神の国はどこか別なところに作られるのではない。わたしたち自身が神によって造り変えられて、今のままで神の国が来ており、自分がそこで天国生活をしていることを悟ることができる。(『神の国はどんなところか』83頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 105  

 神の国に入れていただくためには、生まれ変わって小さくならなければならない(マタイ18:3~4)。この「小さくなること」は人間の力では不可能である。神のお働きによる一つの奇跡である。こうして天の国は神のお力だけによって、絶えず成長している。(『神の国はどんなところか』66頁)
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。