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語録 95

 (ロマ書13:11~14の註解)クリスチャンには古いエオンとの分離がひとりでに起こってくる。だから光の武器をつけてその戦いに参加せよ、とすすめている。クリスチャンはもはや、朽ちるこの世の存在ではなく、神とキリストとが生き給う世界に入れられて、永遠の存在に造り変えられた者である。こうして、今、神の救済の聖業に参与する光栄を担わされた者である。ここは、エペソ2:10と一緒に読まれる。「わたし達は神があらかじめ用意された善い業のため、その中を歩くために、キリスト・イエスにおいて造られた神の作品である」(私訳)。この「善い業」とは、神の救いの業ではなく、信者一人一人におさせになろうと、神があらかじめ用意しておかれた、救いに関するわざのことである。イエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしを信ずる者は、わたしがするのと同じ業をすることができる。いや、それよりもっと大きな業をすることができる」(ヨハネ14:12)と。もはや人がするのでなく、神がキリストをもって、その人に御業をおさせになるのである。キリストの命が流れるままにクリスチャンは行動させられている、いわばキリストの奴隷なので、自分がしたことを誇ることができないようになる。(『ローマ人へ』226~227頁)
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語録 94

 イエス・キリストを信じたものは、彼と一緒に死に、彼と一緒に復活した者である。クリスチャンの命は、キリストにある命とすっかりおき代えられてしまって、もはや古いエオンの人としてでなく、新しいエオンをキリストと共に生きるようにされたのである。こうして、キリストの命が愛となって外に流れ出して、隣りの人を自分のように愛することがひとりでに出来るようになる。このことによって律法は完成される。キリストを信ずることによって、人間的努力にも熱心にもよらずに、律法は完成される。ここで、信仰の内容は、キリストの命を生きることであるのがわかる。そして、その状態におかれると、自分を神にお捧げしているのである。(『ローマ人へ』223頁)
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語録 93

 どんな出来事の背後にも、神のご支配とご関与があることが信じられると、どんな出来事が起こっても、何時も神の善意と、神の救いへの御導きを信じて平安が与えられる。そして、信仰と不信仰との原因と理由が人間側にあると今まで考えていたことが、一掃される思いがする。わたし達が救われたのは、それ自身が目的ではなくて、神の救済史上でご用に当たらせていただくためである。こうして、あらゆる出来事をもって、神は救いのご計画をご実行になられる。(『ローマ人へ』185頁)
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語録 92

 「それ故、あなたは口でイエスが主であると告白し、心で神が死人の中から彼を復活させられたことを信ずれば、救われる。」(ロマ10:9)の註解
 
 救いの第一条件は「口」で、イエスが主であると告白することである。救いの第二の条件は、心でイエスの復活を信ずることである。復活は神がイエスを義とされたことの証明である。復活がキリスト教の中心であるというのは、イエスは復活され、現に今も働いていられるという信仰をその内容とするのである(ロマ1:4)。キリストから新しい命をいただくと、命として実在したまうキリストを目のあたり見奉ることができる。自分もキリストにあって生きていることを知る。この信仰によって救われ、命の世界の人になるのである。クリスチャンはこうしてキリストによって、悪の今の世から命の世界に移されたものである(ガラテヤ1:4)。(『ローマ人へ』162頁)

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語録 91

 クリスチャンは特に神が選びたもうた者である。約束の言葉によって生まれた者である(ヨハネ1:13)。神はヤコブを選んでご計画を実行されたように、今はクリスチャンをご計画の担い手としてお用いになられる。わたし達は神から割り当てられた御用をすればよいので、地上でした業、一人一人の業が高く評価されるのでは決してない。無限大な神のご計画の中に自分を投げ入れて、神の御導きに従うとき、最後の日の救いは確実である。その約束がある限り、わたし達は感謝とよろこびとをもって、命じられる馳場を一人一人が走ることができる。(『ローマ人へ』145頁)
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語録 90

 (ロマ書8:12*の註解)「肉に対して」とパウロが言うときには、ガラテヤ5:1-3の意味をこめていると註解者(シュミット)は言う。つまり、律法に対して義務と考えられていた割礼も、何の必要もなく、何の意義も持たなくなって、ただ霊によって生きる義務だけになってしまったと言う。今日の言葉で言えば洗礼である。洗礼を受けることが、より完全にクリスチャンとして資格づけられるのではない。また人間として立派であることも考慮の外にある。それらについてクリスチャンは少しも義務づけられてはいない。肉に従って生きることであるからである。(『ローマ人へ』116頁)
 *だから、兄弟たちよ、わたし達には義務がある。肉に従って生きる義務が肉に対してあるのではない。

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語録 89

 パウロの手紙の中でⅠテサロニケ4:16~17、Ⅰコリント15:51~52を見ると、クリスチャンが復活するのは、主の再臨の時であると言う。ところがローマ人の手紙やⅡコリント4:16を見ると、クリスチャンの復活は最後の日の出来事ではなく日々の出来事のように書いてある。Ⅱコリント4:16では「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と言う。信者は日に日に命の新しさを感ずると共に、地上において、すでにキリストと同じ姿に変えられる(Ⅱコリント3:18)。復活についての考えが、パウロ自身の中で変って来たと註解者は言う。多分、Ⅱコリント1:8~9に書いてあるような苦難を経験し、自分の中に躍動する命を感じて、彼自身の復活の信仰が変ったのであろう、とその学者は言う。この点ではヨハネの言葉と同じである。5:24にイエスの言葉として書かれている「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、今すでに永遠の命を持っていて、罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである」と。このようにクリスチャンは、永遠の存在としてキリストの命を生きるものとされたのである。(『ローマ人へ』114頁)
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語録 88

 信者が復活されたキリストの所有物となるとは、何という恩恵であろう。キリストと共に生きている信者は、死の限界をのりこえて永遠の世界に生きているのである。このような者はあらゆる地上の争いから逃れて、時間的にも空間的にも無限の広がりをもって生きる。(『ローマ人へ』97頁)
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語録 87

 (ロマ書の)6章全体でパウロはクリスチャンは罪から自由にされた者であると言う。それはイエスにおこった死と復活の歴史が、そのままクリスチャンの歴史になると言う著しい考えが現われている。つまり、キリストは神のロゴス(ヨハネ1:1)であるから、彼を信じ、彼を見、彼を知ることによって、イエス・キリストと同質のもの、神の子にしていただけることを言う。(『ローマ人へ』93頁)
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語録 86

 クリスチャンの道徳は、義とされた者の道徳であり、この世の人の道徳は、義とされていない者、神の怒りの対象になっている人の道徳である。クリスチャンは罪の支配を脱しているから、神の御心に従って生きることが出来るようになっている。力が弱いときには神からのお助けがある。救いの希望が実現されるように導かれてゆく。従って、クリスチャンの道徳は、あるようになれで、別に少しもむずかしいことはない。ところがこの世の道徳は、厳しい命令だけで、その実行力を与えない。罪の支配下におかれているからである。(『ローマ人へ』88頁)
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