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語録 62

災いにひそむ神の愛(黙示録6:1~8)
 いったい、神は何のために地上に災いを下されるのか、また何のために人を殺されるのであろうか。これらの騎士を地上にお遣わしになる神のご行動を、だれでもいぶかる。しかし、神はこれらの災いの下に人を屈服させて、同時に人のいのちを奪う。それは人を完全に救うための神のご行動である。人を創造された神は、また人から、いのちを奪い給う。しかし、大能の神はいつでも死人を生かすことができ、しかも永遠の命をもってよみがえらせることがおできになる(Ⅰコリ5:5)。人は自分自身にも、この世のどんな力にも頼ることができず、絶望の谷に投げ入れられる時、はじめて正気にかえる。そして神を思い出し、神を呼びもとめる。神はそれをめざしていられるのであろう。神には、こんな思いきったことがおできになる。そして、このようにまでしていただかなければ人間には罪がわからず、したがって、罪を赦されたことの恩恵が、考えられないほど絶大なものであることがわからないからであろう。(中略)信者も不信者も、ともに神に愛せられる子供である。それで、神は暴力をもって、サタンの支配下にある人々を救い出そうとされる。この神の愛の鞭のもとに倒れて、自分とこの世に属するものを脱ぎ捨てることができる時、わたしたちは、キリストとともに完全に勝利者となることができる。すこしでも早く神に負けること、そこに勝利の秘訣があるとは、とてもこの世の人にはわからない天上の秘密である。(『ヨハネの黙示を読む』118頁)
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語録 61

 復活の信仰は神のたまものである。私たちに信仰が与えられたのは只事ではない。神とイエスとの人知れぬご努力、それに応ずる私たちの心の態度がうるわしくも結びついたのである。信仰は私たち一人一人のために与えられてはいない。神の器として、頂いた福音のよろこびを人々に告げ知らせる御委任を受けるためである。(『ルカ福音書下』272頁)
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語録 60

 キリストを信じて、罪の支配下から神の支配し給う世界に入れて頂くと、はじめて救世主観は一変する。この世中心に考えての救世主観もっている限り、キリストの福音自身を曲解してしまうので、決して復活は分らない。しかし、自分が命の世界に入れられたことを経験すると、復活はそのまま受け入れられ、今も生きて働き給う主イエスにお目にかかることができる。苦難と栄光とは盾の両面のようなもので、一つを排して他は本質を失ってしまう。このように十字架と復活とは切り離せない関係にある。十字架の生涯は当然の結果として復活の信仰を生み出す。これが福音であって、十字架も復活もないキリスト教はイエスの説かれた教えではない。参照:ガラテヤ1:4(白井きく『ルカ福音書下』272頁)
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語録 59

 イエスは右手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手はもとどおりになった(ルカ6:10)。伸びない手を、イエスのご命令のままに伸ばしたところに、この人の信仰がある。ご命令に無条件に従いさえすれば、そこが祝福の場となる。すべての支障は神ご自身が取り除いて下さる。私たちの日々の生活で、神の御命令がどこにあるかは、信ずる者には明らかに分かる。それに従うか従わないかに信仰の試練がある。(『ルカ福音書上』104頁)
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語録 58

 ルカ5:17に「主の力がイエスに臨んで病気を直させた」とあるように、ここ(ルカ6:19)でも、イエス自身が病気を直した、と言う言い方をしない。イエスに限らず、誰にでも、神の力が臨むとき、キリストと同じ業をすることができる(ヨハネ14:12)。(『ルカ福音書上』109頁)
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語録 57

 「霊が命を与える。肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)が真理であるならば、イエスの在世中に十二使徒として任命されたことが、それほど重大な意味を持たない。重要なのは、復活のイエスにお目にかかって、彼からまことの命を頂き、彼から福音の仕事のために遣わされることである。こう考えると、クリスチャンは、みな小使徒として、福音の仕事に参加させて頂くのである。まことの命を頂くとき、ひとりでに福音戦に参加することになるからである。肉のイエスから任命された十二人だけを使徒と考えようとする考え方がカトリック精神であり教会根性である。(『ルカ福音書上』107頁)
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語録 56

 人が自分に誇るべきものが一つもなくなった時、別な言葉で言うと、自分自身も自分の持ち物も知恵も力もすべてが自分のものでなく、ただ神から賜ったものであることが本当に分かる時、一瞬間一瞬間をただ神に対して生きることができるようになる。(『素人の聖書の読み方』144頁)
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語録 55

 病人が沢山いる。中には生涯病床にいる人もある。この人たちは多分自分のために病気になっているのではなかろう。他人の、またこの世の悪を引き受けて、この世では重荷の下に置かれながら、他人に幸いな立場を提供しているのではなかろうか。自分のところに健康が与えられる陰に、神の側での犠牲があることを思わないわけにはゆかない。その最大な犠牲はイエスの死である。しかも神のひとり子であり給う方の。わたし達に無限の恩恵が注がれるとすれば、イエスの十字架の故であり、また多くの真実な人たちの苦難の賜物である。(『素人の聖書の読み方』47頁)
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語録 54

 神の無限の力を信ずるとき、神はその人の祈りを聞いて何でもしてくださるのでございます(マルコ9:22~23)。従って、人に仕えると言っても、自分がその人のために何かをしようとするのではありません。神に祈って、祈りを聞いて下さるようにするのでございます。ただ神に対してしなければならないことをしていれば、神が、その人の祈りの対象になっている人にお目をとめられて、救ってくださるのでございます。一人一人は神に対して生きることだけを考えればよいので、その点キリスト教は個人主義でございます。(『素人の聖書の読み方』47頁)
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語録 53

 イエスについても、パウロについても、地上生活の終わりは決して人々が考えるように末広がりなものではなかった。否却って道が小さく狭くなって、この地上では生きられないようになって行った。これが栄光の姿ではなかろうか。ピリピ2章6節以下にあるように、イエスは天上では神の貌(かたち;本質が神であったという意味)であられたが、この地上では僕の貌とならないわけにゆかなかったのではないか。そうすると「一番上になりたい者は奴隷になれ」(マタイ20:27)の意味も分かるように思われる。地上では奴隷、しかし来たるべき国では栄光の姿という別々のものではなくて、天上の栄光の姿がそのまま地上には奴隷の姿として投影されるだけのことで、盾の両面のような気がし出した。そして山上の説教の「幸いなるかな」もこんな角度から見ると当り前なことで、クリスチャンはすでに天の栄光をいただいてしまっているからこそ、地上では貧しい人、悲しんでいる人、じっと我慢している人、義に飢え渇いている人である。しかし、僕の貌をとられたイエスの地上生活の中に輝かしい栄光の姿を垣間見ることが出来たように、クリスチャンの見栄えのない地上生活の中に、この世ならぬあわれみ深い人、心の清い人、平和を作る人の姿が見られるのだと思う。完全に奴隷になることが出来た時、それが一番上であるので、一番上であることと、奴隷であることとは同じことである。(『素人の聖書の読み方』31頁)
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